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恭帝 (宋)[きょうてい]
恭帝(きょうてい)は、南宋の第7代皇帝(在位:1274年8月12日 - 1276年2月4日)。諱は㬎(けん。「㬎」は「顯」(「顕」の旧字体の)「頁」の代わりにこざと偏を付けたもの」をつけた文字〔http://www.unicode.org/cgi-bin/GetUnihanData.pl?codepoint=3B0E〕。資料によっては類似文字で代用されることもある)。度宗の四男。廟号はない。 == 生涯 == 咸淳10年(1274年)、過度の酒色により早世した度宗を継いで、5歳で皇帝に即位した。幼少のため理宗の皇后だった謝太后が摂政となった。華北を支配する元に対する最重要防衛拠点であった湖北襄陽が咸淳9年(1273年)に陥落していたため、既に南宋の支配力は非常に限定的なものとなっていた。恭帝が即位した年、元の将軍バヤン率いる南宋遠征軍が、襄陽を越えて長江流域に侵入、南宋軍は各地で撃破され、長江中流域の諸州は相次いで元軍に降伏した。 徳祐元年(1275年)には宰相賈似道率いる13万の軍勢が蕪湖の戦いで元軍に大敗し、同年中に長江下流域の江東(江蘇省)も大半が元に降ると、都臨安の防備体制は崩壊した。徳祐2年(1276年)1月18日、バヤン率いる元軍が臨安に迫ると、謝太后と恭帝は自ら城外に出てバヤンに降伏した。 臨安の失陥と恭帝の降伏により南宋は実質的に滅亡したが、降伏を認めない残存勢力は恭帝の兄・趙昰を皇帝に擁立し、趙昰の死後は恭帝の弟・趙昺を皇帝として南方での抵抗運動を続けた。趙昺が南海に入水し、南宋勢力が完全に終焉を迎えるのは、恭帝が降伏してから3年後の至元16年(1279年)のことである。 趙隰をはじめとする宋の皇族たちは、バヤンによって元の都大都に送られた。趙隰は瀛国公に封じられて丁重に扱われたが、北方で抑留生活を送り、その後の消息はほとんど不明である。至治3年(1323年)に殺害されたとも言われているが、真偽は不明である。
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