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恭帝 (宋) : ウィキペディア日本語版
恭帝 (宋)[きょうてい]

恭帝(きょうてい)は、南宋の第7代皇帝(在位:1274年8月12日 - 1276年2月4日)。は㬎(けん。「㬎」は「顯」(「顕」の旧字体の)「頁」の代わりにこざと偏を付けたもの」をつけた文字〔http://www.unicode.org/cgi-bin/GetUnihanData.pl?codepoint=3B0E〕。資料によっては類似文字で代用されることもある)。度宗の四男。廟号はない。
== 生涯 ==
咸淳10年(1274年)、過度の酒色により早世した度宗を継いで、5歳で皇帝に即位した。幼少のため理宗の皇后だった謝太后摂政となった。華北を支配するに対する最重要防衛拠点であった湖北襄陽が咸淳9年(1273年)に陥落していたため、既に南宋の支配力は非常に限定的なものとなっていた。恭帝が即位した年、元の将軍バヤン率いる南宋遠征軍が、襄陽を越えて長江流域に侵入、南宋軍は各地で撃破され、長江中流域の諸州は相次いで元軍に降伏した。
徳祐元年(1275年)には宰相賈似道率いる13万の軍勢が蕪湖の戦いで元軍に大敗し、同年中に長江下流域の江東(江蘇省)も大半が元に降ると、都臨安の防備体制は崩壊した。徳祐2年(1276年1月18日、バヤン率いる元軍が臨安に迫ると、謝太后と恭帝は自ら城外に出てバヤンに降伏した。
臨安の失陥と恭帝の降伏により南宋は実質的に滅亡したが、降伏を認めない残存勢力は恭帝の兄・趙昰を皇帝に擁立し、趙昰の死後は恭帝の弟・趙昺を皇帝として南方での抵抗運動を続けた。趙昺が南海に入水し、南宋勢力が完全に終焉を迎えるのは、恭帝が降伏してから3年後の至元16年(1279年)のことである。
趙隰をはじめとする宋の皇族たちは、バヤンによって元の都大都に送られた。趙隰は瀛国公に封じられて丁重に扱われたが、北方で抑留生活を送り、その後の消息はほとんど不明である。至治3年(1323年)に殺害されたとも言われているが、真偽は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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